yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

片山九郎右衛門師と味方玄師による能『二人静』@大津市伝統芸能会館 1月8日

そういえば昨年の同じ頃にこの場所で、味方玄師の『竹生島』を見たんだった。その頃はまだ能にここまで溺れていなくて、「いいな」って感じる程度だった。とはいえ、心惹かれ、胸がざわざわとした。オケピで譲っていただいたチケット、正面の前から2列目という席。全体的に穏やかな舞。でも舞い手が時々舞台前面にせり出してくるのが迫力満点で、この緩急の呼吸が新鮮だった。

そして迎えた一年後の『二人静』。緩急の絶妙な呼吸はそのままに生きていた。それも名手お二人の舞。独りのときよりもそれを確認できる場面がずっと多かった。しかも二人の阿吽の呼吸でより確実なものとなっていた。間の取り方、テンポの合わせかた、ずらし方、それら全てにこの緩急の呼吸が生きていた。みごと!それもあざとらしくなく、押し付けがましくもなく、ごく自然体で。おそらくは今の能楽界でこのお二人以外では実現し得ないもののように感じた。贅沢な、そして貴重な体験ができたことが何よりも嬉しく、ありがたかった。

理屈っぽいことをいうなら、この『二人静』ほど「魅力的な」作品はないように思う。様々なクリティカルなアプローチを許す作品。ラカン的に見るならば、まさに「鏡像段階」を示す静と菜摘女。断片化された欲望が全体を志向する想像界のミラーステージそのものを表象している?こんなことを思い巡らせながら見ていると、心が浮き立ってしまう。九郎右衛門さんと玄さんでなければ、ここまで興奮しながら見ることはなかったに違いない。

それでは、ネット検索で入手したこの作品の概要を以下にお借りする。

吉野勝手明神では、毎年正月7日の神事に、ふもとの菜摘から菜を摘んで神前にそなえる風習があった。それでこの年も例によって神職が、女達に菜を摘みにやらすと、一人の女が出てきて、「吉野に帰るならことずけて下さい。私の罪の深さを哀れんで、一日経を書いて弔って下さい。」と頼んだ。そして「あなたのお名前は」と尋ねられると、何も答えないで、夕風に吹きまわされた浮き雲のように、跡形もなく消えた。
そんな不思議な体験をした菜摘女は、そのことを神職に報告するのだが、女は話しているうちに顔つきが変わり、言葉つきも変わってきたので、神職は、「いかなる人がついているのか名をなのりなさい」と言うと、「静である。」と名のった。さては静御前の霊が菜摘女についたことがわかり、「それでは、ねんごろに弔うから舞いを見せて欲しい。」と女に頼む。すると女は精好織りの袴や秋の野の花づくしの水干など、みな静が勝手明神に収めた舞いの衣装を宝蔵から取り出した。女がその衣裳をつけて、舞いを舞おうとすると、いつの間にか静の霊も現われて、一人の女が二人になって舞を舞うのだった。

このサイトには写真も載っている。ただ、九郎右衛門さん演ずる後場の静はこの装束ではなく、もっと白っぽいもの(白拍子を表している?)だった。

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