yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

尾上松緑と中村歌昇の『坂崎出羽守』が出色@国立劇場大劇場11月13日

すごいものを見てしまったというのが、最初に持った感慨。一つの事件だった!西洋的な構成の中で人物のそれぞれの心理、その駆け引きを描いている点で、もはや歌舞伎ではなく近代劇。これにまず驚いた。立体的な構図。近代小説的だと思ったら、山本有三作だった。筋書きに掲載された中村哲郎氏の解説によると、近代戯曲を志向する六代目菊五郎と山本有三との出会いが生み出した作品だとのこと。人物間の葛藤を軸に劇が展開する西洋戯曲(小説もしかりだけれど)。そこから人物が風景のように描かれる従来の歌舞伎を見ると、なんともフラットな印象がするかもしれない。そんな歌舞伎の「戯曲化」、いわば西洋演劇の法に則った再構築を目論み、山本有三と組んだのが六代目菊五郎だというのが意外だった。

二代目松緑がそれを受けて、この『坂崎出羽守』の演出をし、主役を演じた。筋書き掲載の写真だと、大正13年のものが最も古い。歌舞伎データベースに載っている中では1959年9月の明治座でのものが最も古いもの。松緑の出羽守、左團次の家康、鯉三郎の三宅惣兵衛、権十郎(三代目)の本多平八郎だった。その後、1967年5月、新歌舞伎座で同じく松緑、左團次の組み合わせでかかっている。その次は1981年2月、歌舞伎座で松緑の長男の辰之助、羽左衛門(十七代)の組み合わせでかかっている。ずっと飛んで今回のものがその次にくる。実に36年ぶりのこと。まさに松緑家の芝居。これを国立劇場が乗せたということに、拍手を送りたい。

国立劇場の出している筋書、きちんとした専門家の手による作品背景、解説が付いていて、改めて国立劇場文芸部のスタッフの優秀さを見せつけられる。英語の解説もさすが。松竹が出しているあまり「読み甲斐」のない上に理不尽に値段の高いパンフレットとなんという違い。

以下に「歌舞伎美人」を参考にした主たる演者とあらすじを。

<演者>
坂崎出羽守    松緑
徳川家康     梅玉
本多平八郎    (坂東)亀蔵
松川源六郎   歌昇
千姫      梅枝
三宅惣兵衛   橘太郎
金地印崇伝   左團次

<あらすじ>

大坂夏の陣。大坂城落城寸前、家康は孫の千姫をなんとか救出しようとしている。千姫は「人質」として、豊臣秀吉の子、秀頼の妻となっていた。勇猛果敢で知られる坂崎出羽守成正が千姫救出の名乗りをあげる。その坂崎に家康は「助け出した暁には千姫を与える」と約束する。出羽守は燃え盛る火の中から千姫を救出する。

駿府へ千姫を送り届ける船中。出羽守は美しい千姫を恋するようになっているが、千姫は彼女を救出した際に顔に火傷を負った坂崎を避けている。船に警護のため同乗したのが風流のわかる美男子の本多平八郎。瞬く間に千姫の心を虜にしてしまう。坂崎直の家来、松川源六郎はその様をみて、口惜しがる。坂崎も面白くない。弓矢、殺陣で本多と競い合うが、千姫の気持ちはすっかり本多に傾いている。怒りに油を注がれた坂崎、本多と勝負しようとするが、家老の惣兵衛に止められる。惣兵衛は「家康は約束を守るはずだ」と坂崎を諭す。しかし、千姫と本多が仲良く並んで船の帆先に佇んでいるのをみた坂崎は、いたたまれず船底に駆け込んでしまう。この「駆け込む」演出は六代目菊五郎の案になるという。

駿府城。家康は千姫を坂崎に嫁がせるつもりなのだが、千姫は拒んでいる。今日も今日とて、縁組の催促に坂崎が城を訪れている。結局家康は千姫説得を諦め、金地印崇伝にその場を取り繕ってくるように、言いつける。坂崎と対面した崇伝、家康は体調が優れず目どおりは叶わないと伝える。また、千姫は髪をおろし、尼になる意向だととも伝える。

坂崎邸。千姫が本多に輿入れするとの話が伝わってくる。怒りが収まらない坂崎。周りの者に当たり散らす。酒を飲むが心は晴れない。直の家来、源六郎が血書を持ってくる。そこには千姫の嫁入り行列に討ち入り、千姫を奪うとうい計画が書いてあった。そんなことはできないと、血書を破り捨てる坂崎。本来なら手打ちのところだが、今日のところは許してやると言って、源六郎を追い返す。

小姓が持ってきた盆の手水に写り込んだ自身の火傷の顔を見て、嘆く。そこに「源六郎切腹」の知らせが。坂崎は血書を破った自分への当てつけだと怒る。部屋の暗さにイライラの募った坂崎、小姓に障子を開けさせると、目の前に千姫の輿入れの提灯行列が通り過ぎるところだった。

刀を取った坂崎、ついに行列に斬り込んでゆく。「乱心者」と抑えこまれる坂崎。乱心者にすることで、罪の軽減を図ってやろうとした柳生但馬守。しかし坂崎はそれをはねつけ、「自分は悔しいから斬り行ったのであり、乱心者と偽るより、正気の人として死にたい」と言う。最後に武士の矜持を取り戻した場面。「この火傷の首を上使の者に渡すように」と言いつける。さらに源六郎への想いが次の一言に。「源六郎の骸は手厚く弔ってやれよ」。坂崎は切腹して果てる。

なんとも暗い話。九州系大衆演劇の大好物、『喧嘩屋五郎兵衛』はこの話をヤクザバージョンにしたもの?私はこれが大大嫌いで、タイトルを聞くだけで怖気を振るってしまう。が、この歌舞伎版は全く違った。センチメンタリズム、「お涙頂戴」の要素を排していたからだろう。無意味なサディズムも排されていた。何よりも近代劇の枠の中にきちんと納められていた。『坂崎出羽守』を高く評価する。

松緑にお家の芸を受け継ぐという強い意思を感じた。彼の血の中に歌舞伎よりも近代劇的な匂いを感じることが今までにあったけれど、それが最もよく作用していたのがこの芝居だったように思う。坂崎の悲劇を過剰な思い入れを排して演じたのが良かった。坂崎の心理の動きが見ている側に無理なく、ストレートに伝わってきた。これでもか、これでもかというだめ押しは一切なく、戯曲の世界として立ち上がってきていた。執拗なだめ押しがないぶん、悲劇性が高まる。大衆演劇版では「顔に火傷を負ったが故の悲劇」と安直なリーズニングが為されていたけれど、こちらはそうではなく、人間の心理に疎い男が、ひたすら自身の(心理の)闇に捕らえられてしまったが故の悲劇となっていた。己を、その心理を制御できない、見誤るということは誰にでも起こりうること。そこが描けなければ、演劇として失格だろう。ちょっと気になったのが口跡の悪いところがあったこと。台詞回し。差し出がましいですが、謡をやられてはいかがでしょうか。

演者では歌昇がとてつもなく良かった。こちらも近代劇を強く意識しての演技だったと思う。説得力があった。役解釈が抜きん出ていた。その一途さ、融通の利かなさ、主人への想い、それらを一身に背負った若者として描き切れたのはすごい。

梅枝も一皮むけた感じ。勝手気儘な女も説得力があった。こういう女性像も近代的なもの。今までの役どころとは180度の転回。新しい領野に挑んでいるんでしょう。

やっぱり歌舞伎役者はすごい。客の入りがもう一つだったのが残念。おそらくみなさん知らないんでしょう。実験を松緑たち若手が担いつつあることを。若手たちの挑戦、このまま絶えずに続いて行って欲しい。