yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

味方玄師のモダニティが光る能『俊寛』 in 「第35回テアトル・ノウ」(京都公演)@京都観世会館 10月14日

能の『俊寛』を実際の舞台で見るのはこれが2回目。最初のものは今年6月、この京都観世会館でみた観世銕之丞さんがシテをされたもの。そのとき後見で後ろに片山九郎右衛門さんと一緒におられたのが本日のシテ、味方玄さんだった。いただいたプログラムによると、玄さんは『俊寛』のシテは初演だとういうことだった。とはいえ、すでにツレを十回近く務められたという。その半分はお師匠の片山幽雪さんがシテをされた舞台だったとか。この日の『俊寛』、初めてシテをされるとは思えない「整った」舞台だった。

演者としての自身を、鬼界ヶ島に置き去りにされる俊寛と一体化しながらも、その絶望感に苛まれる俊寛をちょっと離れたところからみているご自分。その自身をも注視しておられる。そんな感じがした。玄さんご自身がプログラムでそれを思わせる発言をされていた。それは、彼が師匠の幽雪さんの「視線」を常に感じておられるというもの。この『俊寛』では特にそう。おそらく、幽雪師匠の視線が、玄さんが演じる俊寛と玄さんご自身との間に介在しているのだろうって思った。それは単に師匠の視線で見るというだけではなく、「絶対的な演者」を想定し、その視線で自身を見つめるということでもある。舞台で演じるということは、己を役と一体化させること、でもその間には常に隙間が介在する。いや、介在するというより、否応なく割り入ってくる。

絶対的演者の視線を過不足なく「満たす=満足させる」ようなことはありえない。だから玄さんがこういう感覚を持っておられるというところに、際立って近代的な演者味方玄を見てしまう。彼の真骨頂はそこにあるのでは。この場でそれを再確認することができたのは僥倖だった。しかもそれは、DVDでみた観世寿夫さんのものとも、また観世銕之丞さんのものとも違ったものだった。違った造型法であり、違ったベクトルを示していた。

静かな炎を身の裡に燃やしておられるというのが、この日の俊寛像から伝わってきた。今まで名人が提示してきた「俊寛」とは違った俊寛を創り上げる。その意気込みが青い炎となっていた。俊寛が見ているのは、置き去りにされ惨めな俊寛であると同時に、そういう自分を冷徹に見ている自己でもある。この二つの間の距離が近代的な俊寛を造型している。それを今までのものとは違った形で示したいという、演者味方玄の心意気が静かな炎になっていた。

この日の演者一覧が以下。

シテ 俊寛僧都    味方玄
ツレ 平判官康頼   片山伸吾
ツレ 丹波少将成経  橋下忠樹
ワキ 赦免使     宝生欣哉
アイ 赦免の船の船頭 茂山千三郎

笛   杉市和
小鼓  吉阪一郎
大鼓  河村大

後見  鈴木実 味方團 青木道喜

地謡  河村浩太郎 河村和晃 梅田嘉宏 大江信行
    分林道治 武田邦弘 片山九郎右衛門 古橋正邦

概要等はネット採取したものを、今年6月26日の記事にアップしているので割愛する。