yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

羽生結弦選手のオリンピックのフリー曲が「SEIMEI」に!

やっぱり。6月に晴明神社を訪問、絵馬を奉納されたと聞いた時から、もしやとは思っていた。うれしい。「自分に合っていて無理なく溶け込める」、「滑っていて心地よく、自分らしく演じられるプログラム」と羽生結弦さん自身も語ったとか。日本的精神をフィギュアスケートに融合させた羽生結弦選手の「SEIMEI」。それを演じるにあたり、野村萬斎さんと対談した羽生結弦さん。能・狂言の中にみずみずしく生きている日本的精神。その美学。それをなんとか演技として形にしたいという羽生結弦さんの強い想いを感じた。すでに色々な方がyoutubeにこのニュースに関連した動画をアップされている。その中に、「羽生結弦という人物の演技の中には、古来からの日本人の思いが脈々と受け継がれているように思えてならない」という評があったのだけど、両手を挙げて賛成。

プリンスの「Let’s Go Crazy」にはあまり自身を溶け込ませることができなかったのかもしれない。選曲をしたジェフリー・バトルはそこを誤解していたのではないか。キリスト教文化の中から生まれた曲、たとえそれがキリスト教へのアンチテーゼとしてのブードゥー教的な要素があるにしても、あくまでもキリスト教(西欧)文化圏のもの。私にしてもかなり違和感があった。羽生結弦さんは最後までその齟齬に悩んだと思う。真面目な方ので、なんとか自分のものにしようと随分努力されたのだと思う。でも曲のDNAレベルにまで染み込んだその精神は、他者を寄せ付けない。

だからこそ、今度は「SEIMEI」。これ以上の選択はない。彼とDNAを共有する曲。容易に中に入り込める曲。彼と他の選手を差別化できる曲。日本人選手であってもそれは言える。羽生結弦という人にしか、この日本のDNAをもつ曲は滑りこなせないだろう。日本的な感性が美の極致へと収斂、結実する、そういう稀有な場と時間をpresent(提供)できるのは羽生結弦さんをおいてはいない。これは断言できる。今までも、これからも。

フィギュアスケートといういわば西洋的シンボルでもあるスポーツに和(ヤマト)の感性を入れ込む。このハイブリッド形を、私たちはすでに前々シーズンの彼の演技で確認している。今度はそれを、否それを超えた次の次元を確認することになる。ワクワクしてしまう。私の勝手な予想では、能的な動き−−静と動との緩急—が強調される?身体の中心に一旦溜めた気を、次の瞬間に一挙に吐き出すムーブメントが入る?

そういえば、先日のショパンの「バラード一番」の演技にも「序破急」の流れを強く感じた。自身では意識しておられなかっただろうけど、彼の中にあるDNAがそうなさせたような気がしていた。

youtube(by Figure TV) にアップされている晴明神社の宮司さん、羽生選手がこの6月に晴明神社を彼が訪問、絵馬を奉納した時の様子を語っておられる。羽生選手は十分ほど安倍晴明の肖像画に見入っておられたとか。姿勢を正して。このyoutubeサイトの管理人さん曰く、「安倍晴明に自分の中に入って来てください」と願ったのではないかと。

つい、中村勘三郎(当時勘九郎)が語っていた坂東玉三郎のエピソードを思い出した。当時『盲目物語』で玉三郎と同じ舞台に立っていた勘三郎。お市の方を演じた玉三郎にお市の方が乗り移っているような、そんな感触を持ったという。あとで玉三郎にそう伝えたら、「え、わかった?実は前の日、ずっとお市の方の肖像画を見ていたのよ」と答えたという。ずっと見入ることで、その絵姿の人物が見ている者の中に入り込むということは、起きるのかもしれない。魂が魂に共感してそうなるのだろう。羽生結弦さんの場合も、それと同じことが起きていたのでは。来期の「SEIMEI」、結弦さんと晴明の魂の共振が以前にも増して表現される場になるのは間違いないだろう。