yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

歌舞伎舞踊「二人道成寺」(ににんどうじょうじ)@大阪松竹座7月24日昼の部

「歌舞伎美人」サイトからの概説が以下。

春爛漫の道成寺に、花子と桜子と名のる白拍子が現れます。二人は、所化たちの見守る中、能がかりの金冠の舞や手踊り花笠など、次々と艶やかに踊っていくのでした。

女方舞踊の大曲である『京鹿子娘道成寺』を二人の女方の競演によって演じる趣向がみどころの、華やかなひと幕をご堪能ください。

白拍子花子に時蔵、白拍子桜子に孝太郎の組み合わせ。これはちょっと気の毒だと、見る前から予想してたら、やはり予想的中。残念だった。

以前に見たシネマ歌舞伎、玉三郎、菊之助の『京鹿子娘道成寺』(「2009年2月@歌舞伎座」とどうしても比べてしまうんですよね。玉三郎の振り付けと舞踊。一分の隙もない完成度満点の『京鹿子娘道成寺』。一緒に踊る菊之助も渾身の力を振り絞って玉三郎に付いて踊っていた。しなやかで優雅な手の振りも見事なまでに二人揃っていて、感心した。美しかった。まるで自動人形が踊っているかのような瑕疵のない踊り、でも醸し出される雰囲気は白拍子の艶やかな心映えなんですよね。あの現世とあの世とが繋がった感じは、能の乱拍子の舞にも通じるものがあった。生身の肉体を借りて、あの世と繋がった普遍的美を表現する。玉三郎のそんな心意気に溢れた舞踊だった。

で、今回の時蔵と孝太郎の「道成寺」はどうだったか。どこまで行ってもこの世のもの。「俗」だった。この曲の元は能の「道成寺」。そこに歌舞伎らしい趣向をプラスして、能にはない俗の華やかさを踊りあげるのが趣旨。ありとあらゆる俗の、それも遊郭の華を持ち込んで、俗の極みが究極的にはそれを超えた域に達するものであると示している?俗は俗でもそれを舞踊の術でより高いものに昇華させるところが肝になっているはずなんだけど、今回の舞踊は凡庸な「俗」のままで終了。

細かいことをいえば、孝太郎の振りが時蔵のあとを追いかける感じで、揃っていなかった。これは痛い。顔の向け方、傾け方、身体のこなし方、踊りのテンポ、全てが揃っていなくて、「これって、わざと?」って思ったほど。仮にそうだったとしたら、それらしいフォローがあってしかるべきだけど、なかったしナー、と不満。

時蔵の振りもしなやかさに欠けた。彼は三津五郎と踊った「喜撰」での茶屋女のお梶が秀逸だった。彼は物語性のある舞踊の方がしっくりくるのでは。また、白拍子には歳が行きすぎているのも、難点だったように思う。どう見ても少女っぽさはなかったから。技量でカバーできるんだろうけど、時蔵のニンではなかったような。

この二人の舞踊だったら別のものを選んだ方が良かったように感じた。