yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『絵馬』「第二回 風の能」@三田、風のミュージアム水上ステージ 4月28日

「風や水で動く彫刻「で知られる新宮晋氏の作品と能舞台とのコラボ。池に浮かぶ浮島に設けられたにわか舞台での能。客席は池を取り囲む小高くなった斜面に設えられている。能の開始前、斜面上から舞台に向かって、新宮晋作プロペラ様のオブジェがくるくる舞いながら降りてくる。暗闇があたりを覆う頃、水辺に薪の火が点される。水面にはその影が映り、幻想的な雰囲気を醸し出すという演出。薪に点火する火を持ってきたのは禰宜の方。ただ正直なところ、このコラボにいささかの違和感があった。普通の薪能で(というかその方が)良かったのでは?能舞台の「重さ」がオブジェの「軽さ」をはじき返してしまっている気がした。能ってホントに重いんですよ。屋外で背景にするには神社の能舞台か、あるいは神社と同じくらい「歴史」がどっぷりと染み込んだカテドラル、教会でないと、能の重さに太刀打ちできない。もっとも、新しい試みに挑戦するこういう企画には頭が下がりますが。

人間国宝の梅若玄祥師がシテを務める『絵馬』の舞台を見るために来場したお客さんがほとんどだった?700席近くが満席。立ち見もあり、盛況だった。私の主目的はもちろん玄祥師を拝見することではあったけれど、もっと大きかったのは大倉源次郎さんの小鼓を聴くこと。なかんずく藤田六兵衛さんの笛との競演を聴くことだった。これが達成できて、大満足。

以下、『絵馬』の演者一覧とあらすじ。

演者
尉(前シテ) 上田拓司
天照大神(後シテ) 梅若玄祥
姥(前ツレ) 上田宜照
天鈿女命(後ツレ) 梅若猶義
手力雄命(後ツレ) 梅若基徳
勅使(ワキ) 福王知登
従者(ワキツレ) 喜多雅人、是川正彦
蓬莱の鬼(ワキ) 茂山千三郎、松本薫、鈴木実

笛 藤田六郎兵衛
小鼓 大倉源次郎
大鼓 大村滋二
太鼓 前川光範

後見 山崎正道、赤松禎友、川口晃平

地頭 上田貴弘
地謡 上田大介、寺澤幸祐、藤井丈雄、笠田祐樹、大槻裕一


あらすじ
勅使が伊勢神宮にやってくると、日照りを占う白絵馬を持った老人と雨を占う黒絵馬を持った姥が現れ、どちらの絵馬を掛けるか争うが、天下万民が喜ぶようにと今年から両方を掛けることにする。そして、自分達は伊勢の二柱の神だと明かして消え失せる。蓬莱の鬼達が宝物を捧げに現れる。やがて天照大神が天鈿女命と手力雄命を従えて現れ、舞を舞い宮に入り、天の岩戸隠れの故事を再現する。

あらかじめこの能のあらすじを知っておかないと、なぜこういう流れになるのかが納得できないかもしれない。元々は前シテと後シテは同じ演者が演じる。それをこの様に分けたのは、玄祥師の天照大神を際立たせるため?私には元の形の方が良い様に思えた。尉と姥が後場では「伊勢の二柱の神」となって登場するわけで、同じ演者が演じた方が「絵馬奉納」の意味が生きてくる。前場の翁後場では神であるというパタンは能ではよくあるもので、この方が前場と後場のつながりがはっきりとするから。

もっとも、どこかショーを思わせる「パノラマ的なきらびやかさで魅せる」のを狙って、多くの演者が競演する演出を採ったのかも。次々とめまぐるしく登場する人物群。こういう方式は観世小次郎信光のそれのよう。広く観客を惹きつける一つの行き方ではあるかもしれない。

舞台の作り物も新宮晋氏作。黒白のモザイク模様の小さな小屋がそれ。前場では神社の社、後場では天の岩戸になる。ただ、これもいささか存在感がありすぎる感じがした。能舞台での作り物は極力目立たせない様な作りになっていて、それが歌舞伎の大仰な大道具と際立った対照をなしている。今回の新宮晋氏作の作り物は、その二つの間。もっと控えめでも良かったのでは。シンンボリズムの極地を行っている能の作り物の意味を、図らずもここで考えてしまった。今回の作り物、パノラマ的な舞台と合わせたという点では、それなりに意味があったのかもしれないんですけどね。

玄祥師の天照大神は偉大なオンナ神というより、まるで少女の神。岩戸から引っ張り出されるところがおかしいし、可愛い。こういう風に演じるものだというより、玄祥さんの人となりがそのまま出ていたのだろう。芸では比べるべくもない高みにおられる方だけど、それでもあの可愛さはなんなんだろう。DVDで拝見した『道成寺』でのあの花子も素晴らしかったけど、先ごろみたばかりのDVD、『鞍馬天狗』での可憐な子方にも唸った。もう60年も前の舞台なんですよ。子供の頃からの美声はその可愛さとともに69歳の今も健在。初めて実際の舞台を拝見したのだけど、見れる機会があればできるだけ見たいと考えている。

大倉源次郎さんの小鼓はこの様な戸外ででも格調高く、凛々しく響く。藤田六兵衛さんの笛がそれに嫋嫋と、時としては激しいピッチで寄り添う。大鼓、太鼓ともに若い方々で、そのテンポにしっかりとついて行っていて、聞き応えのある囃子。見事。

総出の感のある他の演者の方々もこの場所、この設定、そしてシテ、囃子のこれ以上ないコラボに負けない様な気構えを強く感じさせた。私の中で記憶に残る舞台になるだろうと確信した。

時間的にはあまり長くはなかったのだけど、終わる頃にはすっかり身体が冷えてしまった。演者の方達も、またスタッフの方達も大変だっただろう。帰りは神姫バスが何台かシャトルして、三田駅まで送ってくれた。行きは三田発のシャトルバスに遅れてタクシーを飛ばす羽目になったのだけど。それにしても駅から随分と遠い、丘陵地でのパフォーマンス。芝生の上で観劇するなんて、何年も前のアメリカでの「タングルウッド音楽祭」以来。あれは夏だったけれど、冬のコートを持参したっけ。今回の三田もそうすべきだった。