yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

シテ 梅若六郎(現 梅若玄祥)「道成寺」の華やぎ

『能 道成寺』 [DVD、紀伊國屋書店、2012年]を見た。以下がその内容紹介。

平成12年に収録された道成寺三題
実力・人気ともに日本を代表する三人のシテ方の舞台を通し能の魅力を伝えます。

観世宗家・観世清和、梅若家当主・梅若六郎、喜多流・塩津哲生の三者三様の演技、面・装束の違い、能の演出の奥深さを実感していただけます。

◆観世清和 二十六世観世宗家 9分46秒
平成12年12月24日 福岡大濠能楽堂での舞台をハイライトシーンで構成。
◆梅若六郎 梅若家第五十六世当主 87分45秒
平成12年2月16日 名古屋能楽堂での道成寺の全容を記録。
チャプター/マルチアングル/詞章
◆塩津哲生 9分45秒
平成12年8月3日 日本有数の野能舞台である八ヶ岳身曽岐神社能楽殿での薪能。

三人の演者の舞台。三人三様。ただ、フルのものは六郎氏のもののみ。「道成寺」を「みる」のは初めて。ずっと見たいと思って来たので、DVDがあると知り、早速購入。実演には及ばないのだろうけど、それでも生舞台には付かない音声による解説があり、これがとても参考になった。「そうなのか!」と思い当たることもあり、能の講義を実況と共に受けている感じ。退屈することは全くなく、聞き応えのある情報満載。

通しは梅若六郎氏のもののみだったのだけど、改めて「人間国宝」なる人の芸の卓越を知ることとなった。もう別格!六郎氏の舞台も見たことがないので、まさに初めて尽くし。それに平成12年の録画なので、今から15年も前の最盛期?の舞。身体のキレが良く、声もしっかりしている。「道成寺」が体力勝負と聞いてはいたが、ここまでのキツーイものだとは!静止した状態でのあのエネルギーの蓄積、一足前に出るときの、溜め込んだ息の解放。老年でこれを演るのはきついと思う。4、50代までのものだと感じた。

入鐘の前の乱拍子も、スピードが要求される。すっきりとした足さばきも見せ所。そして小鼓方、大鼓方の打つ鼓の音、掛け声、地謡の唱和、それらの合奏に合わせた、シテの舞。時にはそれを切り裂くがごときの床を踏む音。ぶつかり合うエネルギーの充満、横溢。モーレツに劇的な空間が現出する。

そして「鐘入り」。これは命の危険を伴うものだと、武智鉄二が書いていた。彼が贔屓の櫻間道雄の「鐘入り」を描写しているのを読み、「見たかった!」と叶わぬ思いを持った。実際には櫻間道雄氏の「道成寺」どころか能「道成寺」そのものも見ていなかった。見たことがなかったので、よけいに空想は膨らむ。歌舞伎の「道成寺」ものとはかなり違ったものだと、なんとなく想像していた。河野多恵子の「鉄の魚」をアメリカで読んだとき、これは「道成寺」の鐘をアリュージョンにしているのだと確信した。その時は歌舞伎だと思ったのだけど、あれは能の「道成寺」を想定していたんだ。今、わかる。生と死の、生き残った者と亡霊との厳しいせめぎ合い。歌舞伎の場合はもっとそれが緩やか。

さて、舞台では鐘が上がり、そこに蛇体となったシテがうずくまっている。顔をあげると般若の面。ぼうぼうとした白髪頭。すくっと立ち上がり、調伏しようとする僧たちとの闘いになる。同様の場面は「葵上」でも見たけれど、こちらの方が数倍激しい。幕のところまで追い詰められたシテ。改めて力を蓄えて、僧に迫ってくる。なかなか前にゆけず、シテ柱に背を付けそこに左腕を絡めて、抵抗する。打杖を振り上げ、僧に肉迫してくる。この場面のエネルギーも猛烈に高い。乱拍子のものが奥にひめた強い恋慕から由来するどちらかというと「内向きの」籠もったものであるのに対し、こちらはそれが執念と怨念の強力な迸りに変わり、もっと「開放的」に、あからさまに表出している。グッと前に向かう勢いのあるベクトル。囃子も熱が帯びるのは乱拍子のときと同様。

こういう緊張感に満ち満ちた、そして見ている側にもそれを強いる舞台を見ると、次元の違う世界に行ってしまったような、そんな気持ちになる。

六郎氏のシテは激しいのだけれど、どこか悲しげで、そして己の姿をどこかで恥じているような、そんなリザーブを感じさせるものだった。コントロールできない女の情念の哀しみを描き出していて、素晴らしかった。

そして、改めて聞き惚れたのは大倉源次郎さんの小鼓と掛け声。15年前だけど、姿はほとんど変わらず。というか、今でも水際立ったお美しさです。また鐘を扱われた鐘後見の梅若晋矢(現梅若紀彰)氏のサポートぶりにも感心した。

もっと書きたいことはあるのだけれど、3日前に右手を骨折。思うように使えない状態。