yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

お芝居『闇の捕り縄』劇団花吹雪@新開地劇場7月23日夜の部

お芝居『闇の捕り縄』
細部は少しづつ違ってはいるものの、大まかなプロット、人物関係の同じものを他劇団でもみたことがあります。
筋は以下。

庄太郎(春之丞)は知恵おくれの妹、お末と二人暮らしである。もとは十手持ちだったのだが、目を病み盲目となったため、十手を奉行所に返してしまったのだ。今は蓄えで食いつなぐ生活である。

折しも手配中の盗賊、隼の銀二(京之介)が付近に逃げ込んできて、二組の十手持ちが取り押さえようとしたが、逃げられてしまった。この二組のうち鳥越の親分(京誉)は人柄が良いが、もう一方の(名前は失念)親分(寿美)は隙あらば人の手柄を横取りする悪い親分である。今日もその場で鳥越の親分を愚弄し、額に傷までつける。

一方、銀二はもう諦めてお縄になるという兄弟分の盗賊(愛之介)を説得、その場は別れて追っ手をかわし、後で会おうと約束する。

捕り物の場に丁度行きあわせた庄太郎は鳥越親分の手下(松之介)に風向きの方に向かって笛を吹けばみすみす盗賊に逃げられてしまうと助言する。怒る手下。そこへ鳥越親分がやって来て、庄太郎の助言に感謝する。この二人は旧知の間柄だったのである。

庄太郎が家に帰るとお末が一人で待っている。いかにも貧しい佇まいの長屋の家の中である。そこへ鳥越親分がやってきて庄太郎に奉行所からおよびがかかっているという。なんでも庄太郎の「助言」に感心し、再び奉行所に奉職しないかという話だった。それが鳥越親分の口添えだったと察し、感謝する庄太郎。二人は奉行所に出かける。

長屋に銀二が逃げ込んでくる。お末にこの場に来たことを隠すようにと言い含めて裏手に回る。そこへ悪い親分がやってきて、小判をお末に渡し銀二が逃げ込んで来たことを白状すればやるという。奥にいると答えるお末。親分たちが奥に行くと銀二の姿はなかった。怒った親分は渡した小判をお末から取り上げて去って行く。

奥から銀二が出て来て、お末をなじる。が、ふっと思い当たる節があり、兄の名を問う。「庄太郎」と聞き、またお末の名を聞いて二人が兄妹であると悟る。兄が盲目になっていると知った銀二は懐から財布を取り出し、お末に渡す。それで目の治療をしてくれというのである。

そこへ庄太郎が帰宅。銀二はあわてて再び奥に姿を隠す。ずっしりと重い財布をもつお末に驚いた庄太郎。お末は訪ねて来た男からもらったというが、庄太郎はどこかで盗んだのだろうとお末をぶとうとする。そこへ奥から銀二が出て来て、その財布は自分がお末にやったのだととりなす。感謝の辞を述べようとして、庄太郎はその財布が盗賊、隼の銀二のものと見破る。銀二に向かって、「やい、隼の銀二、実は弟、庄吉!」と叫ぶ。驚く庄吉。その庄吉に向かって、庄太郎は彼が所為で両親が死んだという。

庄吉は村にいたころ、庄屋をしていた父が村人から集めて預かっていた金をもって逃げたのだ。そのため父は田畑を売り払い、それでも申し訳ないと縊死した。母も間もなく後を追うように病死。庄太郎はお末を連れて江戸に出てきた。ようやく十手持ちになったが、慣れない土地での慣れない仕事で目を患い、遂に失明したのである。自分の犯した罪の重さを初めて知る庄吉。その庄吉に庄太郎は縄をうとうとする。しかし庄吉は少し待ってくれて哀願する。兄弟分と約束があるから、それを果たしてから戻るというのである。「それはできない」と取り押さえる振りをしながら、庄吉を逃す庄太郎。

約束の待ち合わせ場所、船着き場にかけつけた庄吉。そこには弟分が待っている。弟分に残りの持ち金全部の三十両を渡し、逃げるようにいう銀二。そこへ十手持ちの二人の親分とその手下がやってくる。銀二は船を押し出して弟分を逃す。鳥越親分はその場は自分たちの縄張りなので引き下がるよう、もう一人に命令する。鳥越親分が銀二を取り押さえようとしたとき、庄太郎がお末を伴ってそこに現れ、自分に縄をうたせてくれという。

縄をうとうとしたとき、お末がその人は「兄さんの目を治すようにといってお金をくれた良い人だと」仲裁しようとする。ひるむ庄太郎。一瞬弟を逃そうかと迷うが、弟はすでに観念している。それが分った庄太郎はお末に縄をうたせる。お末は「痛くないにくくるね」という。それを聞いた庄吉、庄太郎兄弟は涙。折から雪が降ってくる。庄吉に自分の羽織をかけてやり、番屋まで引っ張って行く庄太郎で幕。

「花吹雪」が新開地でこの演目をするのは久しぶりとのことでした。私がこの演目でみたのはすべて九州系の劇団でした。九州系のものと比べると、花吹雪バージョンはもっと筋が整理されていました。でもこの系統のお芝居には私はアレルギー反応があります。やたらと親兄弟の情が強調され、そこに安易な感情移入を強いるようなおしつけがましさがイヤなのです。こういう芝居はおそらく現代の観客にはあまり受けないのではないでしょうか。とはいうものの、他劇団で観た時は周りのおばさまたちは「紅涙」をしぼっておられましたが。昨日も前列、横の年配のご婦人たちはハンカチで目頭をおさえていて、びっくりしました。もっとも若い人たちはそんなことはなかった。で、思ったのですが、「花吹雪」にはこの手の芝居は不向きではないかと。観客層がかなり若返っているというのもありますが、それ以上の春之丞さん、京之介さんのニンに会っていない気がします。

私は九州系の劇団の芝居は苦手です。それはこういう昔ながらの旧態依然とした「悲劇」をなんの現代的解釈をも施さないでそのまま演じようとするからです。そこにはソフィスティケーションのかけらもみられません。

「花吹雪」は生粋の関西劇団の雄です。おそらく座長さんたちはそれを強く意識しておられるだろうと思います。お二人とも関西の劇団を代表するだけの矜持と力をお持ちの方たちであるのは、今までかなりの数のこちらのお芝居(悲劇、喜劇ともに)を観てきた私のいつわらざる感想です。その才能とその気概はお二人とも図抜けています。先代までのお芝居を一度解体し、それを再構築して、より現代にマッチしたものにするという作業してこられたのを、舞台で何度も確認しています。もっとも、このお芝居も九州系のような「重くるしさ」は感じられませんでした。だから、こういうお涙頂戴の筋書をあと一歩踏み込んで、できれはコメディタッチの部分を絡めるという工夫をするのはお二人にとっては大して難しいことではないような気がします。そういうのを観てみたい。

一昨日の『ある日の殿様』は「花吹雪」の「花吹雪」たる所以を見せつけられたすばらしいものでした。何回か観ていますが、いつみても「さすが!」と思わせられます。春之丞さんが凄腕なのは分っていたのですが、京之介さんがより腕をあげられていました。さすが座長です。襲名すると演技の位があがると歌舞伎ではよくいうのですが、それがそっくり当てはまっていました。しかもその日は20日の「桜京之介座長襲名一周年記念大会」のあった翌日のことなんですから、すごい!京之介さんといえば、お芝居はもともとお上手だった(とくに喜劇は彼なしでは回らないでしょう)のですが、今月観て思ったのは舞踊に技巧を超えた「情」のようなものが感じられたということです。情念といってもよいかもしれません。そういう「情念」を昇華させてあくまでも「きらきら」の表層を貫いておられる春之丞さんと、ここで一対の見事な陰陽の絵が出来上がったような気がしました。

昨日もう一つうなったのが、ラストショーの「女郎蜘蛛」でした。この工夫、感動でした。「Sakitama」、「夜叉ケ池」に合わせての舞踊。歌舞伎「夜叉ケ池」、「累」(「累ヶ淵」)などとの「美女の魔物」と貴公子との闘いに猟奇もの、と幻想を絡めるというコラージュはすばらしかった。この工夫は「劇団新感線」を思わせますが、座長、若い座員さんたちの身体、その動きは「劇団新感線」を凌駕しています。こういう新しさ、おそらく古い世代にも受け入れられると思います。ずいぶんと研鑽、勉強をされているのがよく分かります。今後どのような「挑戦」をされるのが楽しみです。とはいうものの、関西公演は8月の3日間(24、25、26日)の心斎橋劇場での公演を除き、今年一杯はないとのことで、残念です。