yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『當世流小栗判官』in 芸術祭十月花形歌舞伎@新橋演舞場10月16日夜の部

とにかくもう脱帽!これで亀治郎のファンになった。きわめて知的で、それでいてカワイイ人だというのがよく分かった。シャープな方だというのは、写真のその目から察せられたのだけれど、それがちっとも「冷たく」ない。なんともいえない愛嬌がこぼれている。女形をしてもけっして「美形」(例えば玉三郎やら春猿のような)というのではないけれど、それをはみだすような色気がある。その色気も爛熟したものではなく、清潔な色気である。猿之助が女形をすればドラァグクイーンのような感じだったけれど、亀治郎は「女」なのである。それもどこか「おぼこさ」の残る初々しい女なのだ。こういう女形はあまりいない。男の役者が若い女を演じても、ドラァグクイーンか、爛熟か、といった範疇になってしまうのだが、亀治郎はそこに新しい形を拓いてみせてくれた。なんといっても、声がいい!立ちでも女形でも安定した発声、それに色気がある。今の歌舞伎役者で彼を超える人はいないだろう。

小栗判官の立ちも良かったけれど、それは女形の余韻を残しつつ演じるというところが、私には一番魅力的に映った。同じく説教節に由来する『攝州合邦辻』の俊徳にしてもそういう「女」の余韻を残して演じた方が、なぜ玉手があそこまで俊徳に惹かれたのかが観客によく伝わるように思う。この意味で、今までみた俊徳は私には不満足だった。丁度大人になりかかっている少年、まだ「男」というにはあまりにも美しい男を演じるには「女」的な、それも少女に近い女の要素を醸し出せる役者が必要である。小栗判官も若い男、それも公家の出である。そういう雰囲気を出すにはどうしても「女」が透けてみえるような演出の方が効果的である。それを踏まえた上での役作りだったのだろう。

もちろん最後の「宙乗り」、それも照手姫との馬に乗っての宙乗りは感動的だったけれど、私がいちばん「よかった!」と感動したのは第二幕「堅田浦浜辺の場」での亀治郎の浪七だった。亀治郎は小栗判官、この浪七、そして女形のお駒という三役をこなしていた。この浪七の壮絶な最期の演出がとてもヴィジュアルでよかった。現在の歌舞伎に欠けている要素がすべてぶちこまれていた。そしてそのヴィジュアルな演出は、大衆演劇の優れた劇団ではすでに舞台に乗せている演出でもあった。勘三郎丈の『俊寛』を思わせる演出でもあったけれど、もう一歩の挑戦があった。それを評価したい。亀治郎のホームページサイトからPR用の写真を拝借した。以下である。


演出面ではおそらくスーパー歌舞伎『オグリ』に倣ったところが多かったのだろう。斬新なものオンパレードだった。残念ながら『オグリ』を観ていないので、断言はできないけれど。演出のすばらしさについては稿を改めて書きたい。

もう一つ良かったのは、第二幕第一場に獅童さん演じる「コミックリリーフ」を挿入した点である。これは大衆演劇でよくあるパターンで、どちらが鶏、どちらが卵なのかと思った。というよりも、新しい演出を創案するとなると、同じ帰結になっただけなのだろうけれど。

さらにもう一つ気になったのが、盲いた小栗判官がいざリ車に乗って照手姫に引かれている場面だった。これはちょっと中途半端な感が否めなかった。これは観客にとってはかなりショッキングな光景なのだから、もうすこし補足するか、あるいは思い切ってカットするかの方が良いと思う。時間制限があるので、話のつじつまを合わせるのは至難の技だろうけれど、そこにもう一工夫あればと思う。

この演目、演出の詳細についてはまた別稿にしたい。